お人好しも大概にせぇよ

 お人好し、といえば多少聞こえはいいかもしれないけれど、私は本当に度がすぎる。

 お前は聖母にでもなったつもりなのか、自分のことすら救えないくせに。

 そんな罵詈雑言が鼓膜の中でぶおんとこだまして、私は本当にばかだなと、という自己嫌悪に納得して自分の愚かさにげんなりしつつ、ホッとする。


 ああ、私は、母の希望通り、ばかなのだ、と。


 最近進めている認知行動療法で、幸せになるべきではない、楽をするべきではない、という概念が強すぎて勝てそうにないということが分かってきた。というか、分かってはいたけど、直視せずにいたことが、明確化されてきた、という感じだ。触りたくなかったゴミ箱の中に手を突っ込んでるみたいに、過去に置いてきた感情が形を持って、それを無理矢理拾い上げるような、そんな感じ。とても不快で、とても怖くて、とても気持ちが悪くて、なのに、そうやって、窮地に立っていることが心地よくもあって。

 私はもっと責められるべきなのだ。と思う。

 私はもっと苦しむべきなのだ。とも、思う。


 ただ、そんな私を見て、苦しむ人がいるのなら、改善しなければならない。


 そう思うと、いかに母が、私の不幸を願っていたのかをひしひしと感じて、とても痛くて、とても悲しくて、とても、安心する。幸福でないことの方が、私にはお似合いだと思う。

 愚かしい戯言に過ぎないのは分かっている。でも、それが私にとっての真実であることは、もう、覆せない。私は幸福になりたくないのだ。幸福である自分を許せないのだ。


 私が笑うと母が怒った。

 私が苦しむと、母は笑った。


 どちらも地獄なら、せめて、母には笑っていてほしい。だから不幸を選択するのかもしれない。

 そう思った時に、ゾッとして、そして、哀れだな、と思った。私が私を哀れんでいる。それだけが私が救われる道筋だと感じて、絶望した。


 いつまでこうなのだろうな、と思って、いつまでもきっとこうなんだ、と悟った。しあわせになんかなれないのなら、早く命尽きてしまえばいいものを、私は私の周りの大切な人たちを泣かせることが耐えられなくて、こうやってズルズルと生きているだけなんだ。


 私がいなくても、きっと、救われる人間ばかりなのに。

 そうじゃないよ、と言ってくれることを想像して、吐き気がしてしまうのだ。


 お人好しの皮をかぶって、私はいつまで、自分を追い詰めるんだろう。死ぬまでこうなんだったら、もしかして、一周回って、幸福になってしまうかもしれないけれど。

 だって、嫌われて当然なんだから。早く、もぐらになりたいな。早く人間辞めたいな。


 世界一私を必要としてない、私なんて、早くいなくなればいいのに。

閉吐 憂。のひとりごと

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